コロッケを敷き詰めるGWの幕開け

今年のGWは10連休という超大型連休だ。今朝テレビをつけると「GWどこいく?」とレポーターが街行く人に聞いていた。初日から海外に立つ人もいるだろう、田舎に帰る人もいるかもしれない。

世間は色彩様々に色めき立っている。しかし、そんなGW初日、僕は朝から鬼の形相で茶色の揚げ物コロッケを弁当箱に敷き詰めていた。

 

本日、GW初日。僕は派遣でとある工場に来た。この工場は日本人が少なく、外国人労働者が多い。今日僕の直属の先輩はマニラさんという人であり、今日一日この先輩の指示を聞くことになった。

ここで断っておくが、マニラさんというのはもちろん仮名である。マニラさんの顔を見たときに、なんとなくフィリピンの風を感じたのでこの名前で呼んでいるだけである。

 

さて10時30分。チャイムが鳴る。

仕事の合図。

僕にとって、ここは初めての派遣先なので何をすればいいのか分からない。とりあえず何をすべきかマニラさんに聞く。すると即座に「オニィサンはコレやて!」と言ってマニラさんは指をさす。僕はその指の延長線を見る。そこにはコロッケの山が3つあった。「オニィサン、早くソレやて!」マニラさんは言う。

 

マニラさんに指示された僕は、ベルトコンベアの側でパレットに載せられているコロッケの山々と対峙する。これは多分ライン工というやつで、業務内容はベルトコンベアから流れてくる弁当箱に対し、その所定の位置にコロッケを入れる、というものだった。

目の前にはマッターホルンの如く聳え立つコロッケ山脈。心が少し暗くなってきた。

軽く見積もって一山300~400個ほど。三つで大体1000個前後あると思われた。

1000個って凄い数だ。一日一個食べても3年かかる。石の上にも3年というが、僕はその間にコロッケを1000個食べられる計算だ。

それを一日で処理しようというのだ。

アホである。

 

そうこう考えているうちに、目の前のベルトコンベアは動き出した。横並びに従業員が並びそれぞれの品物を入れていく。僕の並びは後ろの方だった。

「ブゥゥゥン」とベルトコンベアは動き続け、目の前に今日初めての弁当箱が来た。

弁当箱の中は9区画ほどに分かれており、コロッケはレタスと共に中段3つめの区画が所定の位置である。簡単に言えば右上から数えて区画6である。

僕は初めて、レタスが既に入ったその区画6にコロッケを入れた。

その後も次々と流れてくる弁当箱の中段3つ目にコロッケを入れていく。

コロッケを取る。弁当箱を見る。区画6に入れる。コロッケを取る。弁当箱を見る。区画6に入れる。

僕は完全にコロッケを区画6に入れるだけの哀しきマシンと化していた。

僕はもういない。マニラさんの声も聞こえない。フィリピンも要らない。僕はただ区画6コロッケマシン。所狭しとした弁当箱にコロッケをねじ込む。それが区画6コロッケマシン、ボクの仕事。

気づけば昼休みになった。僕は午後に備えて昼食を食べた。

エネルギーを回復した僕は、また再開のチャイムが鳴りコ区画6ロッケマシンに変身した。

午後は午前より少し上達した。

「ねじ込む。置く。詰める。入れる。」

区画6の同区画に詰められたレタスの盛り具合やコロッケの形により臨機応変にコロッケを入れることができるようになった。またどうすればコロッケもレタスも映えるようにできるか?それを考えるマシンになった。区画6担当コロッケAIである。

 

コロッケは語りかけてくる。

「区画6は人間社会そのものだ。」

如何にして他者と生きられるか。如何にして他者も自分も輝きながら共生できるか。自分をグッとねじ込むのか、スッと関わらないように自分をその場に置くのか。ガッと相手を圧して詰めるのか。

他者の形、自分の形に応じてその生き方は変わる。少し自分が凹んだ短所の部分があればそこを隠して生きるのも手である。

 

コロッケは僕に語る。

「汝、如何にして生きる。」

僕は言う。

「ボクは区画6にコロッケを入れるだけのマシン。それ以上のことを為さずそれ以下のことも為さない。」

 

そんな風に哲学者のようなコロッケマシンになっている時、

「ヤァァメェエェ。業務オツカレェェ。」

フィリピンの暖かい風が、白くて寒い無機質な工場に吹いた。

マニラさんの声だ。

僕は区画6コロッケマシンから人間になった。気づけば余裕で3つのコロッケ山どころか、もう5つ山くらいは処理していた。

目の前の柱にある掛け時計を見ると18:00だ。退勤の時間。業務が終わった。

しかし単純労働特有のもので、大して労働途中の記憶は残っておらず、疲労だけが全身を支配している。まあ、とにかく終わった。

疲れた。

 

帰りは夕暮れの中シャトルバスに乗り、日も暮れかかったぐらいで駅に着き電車に乗り換え帰宅する。

もうすっかり日も落ちた頃に最寄り駅に着く。疲れた。全身がだるい。そのはずなのに向かう先は家ではない。何故か分からないが、とにかく足が、家とは反対方向に向いた。ずずっと歩き着いた先は地元のコロッケ専門店。そこで一番人気のコロッケを買う。買ったそのコロッケを見て無意識に何かを探す自分に驚いた。そうだ。僕は区画6を探していたのだ。区画6コロッケマシンの魂は僕の心に宿ったのだ。

 

 

春の夜風に包まれながらコロッケを頬張る。もごもごと頬張ってコロッケマシンは語る。

「コロッケ、美味しい。」

 

 

 

[コロッケ一句]

ベルト前 コロッケの山と 対峙して

埋もれてふかふか できるぞ今なら
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僕vs鼻水in教室。~智力の限りを尽くす奮闘記~

春。毎年この季節になると、僕の鼻腔には琵琶湖が出現する。鼻水が琵琶湖の如く、こんこんと涌き出てくる。いわゆる花粉症である。何故、人間が花の交尾に巻き込まれねばならんのだ。甚だおかしい。ふざけるな。花園でセックスするぞ。

 

花粉症患者は一人一つの琵琶湖を持っている。

鼻腔の琵琶湖から流れ出す淀川が右鼻、左鼻問わず濁流となって穴から出てくる。この流れは止めようがない。場所を問わず無慈悲に溢れ出すのだ。家で、職場で、学校で。

そして僕は今、教室で闘っている。

 

今は少人数の言語の授業中。小さな教室。ネイティブの先生。熱心に授業を聞く学生。そして鼻水と戦う僕。

傍目から見ると、僕は集中して静かに授業を受けている一介の学生に見えるかもしれない。

確かに、集中はしている。しかし、その対象は授業ではない。「如何にして鼻水を止めるか。」を考えているのである。

こんなにも真剣に考えているのは理由がある。実は、授業時間残り45分にして、ポケットテイッシュの残機は1である。

完全に配分ミスである。授業前半の鼻水ブーストでポケットティッシュ3パックを消費してしまった。つまり、15分に1パック消費する計算だ。乗りきれない。このペースではポケットティッシュ1つで後半を乗り切れない。

 

こう考えている内に無慈悲にも鼻水は垂れてくる。しかし、少しの鼻水ではティッシュを使いたくない。最後の1パックを失ったが最後、「○大のボーチャン」として後ろ指を指されるのは必至であるからだ。

どうしようか。よし。とりあえず上を向こう。こうすることで鼻水が垂れてこない。かつ鼻水を満タンまで溜められるため、ティッシュを最大限有効活用できる。これは心技体の極みである。

 

しかし、この三位一体の奥義は長時間出来ないという欠点がある。なぜなら授業中であるからだ。長時間上を向いて良い人間など、坂本九ただ一人であるのだ。

下を見ないと人間は生きていけないのだ。

ましてや授業中に上を向き、虚空を見つめる人間など、傍から見れば、精神に何らかの異常をきたした人間としか思えないだろう。

おそらく「あの男は虚空を見つめているのではない。泰然自若として鼻水を溜めているのだ。」などと正当に思ってくれる人間など皆無に等しいだろう。(もしいてもそれはそれで不名誉だ。) 

 

と、ここまで考える。今は斜め45度上を向いている。これならば不自然でないし、尋常ならざる濁流をある程度抑えれるからだ。

 

ここまでで授業残り20分。読者の人たちは、「もしかしたら、こいつ乗り切れるのでは?」と思ったかもしれない。

そう思ったなら申し訳ない。

実は、表現しなかったが残り20分にしてティッシュをここで使い切っていたのだ。アクシデントだった。先ほど上を向いていたときに、鼻の奥がサワサワとしだして遂には「ブァックション!!」とクシャミをしてしまったのだ。

とっさに鼻を手で覆ったが、満タンまで貯めた鼻琵琶湖貯水により、手の中は、突如洪水に見舞われたような惨事になっていた。

それを拭くためにラストポケティを全部使ってしまったのだ。

 

終わった。もうダメだ。ティッシュがない。そして、こんな時でも、そんなこちらの事情はそっちのけで鼻水は今にも溢れ出さんとする。どうしよう。どうしよう。そう焦っていた僕に一つの天啓が聞こえた。「汝、堂々とせよ。」

 

その天啓を聞き、なるほど。確かに堂々とすれば、鼻水など出ていないかのように振る舞えば、大丈夫だ。

幸い、これは抗議形式の授業だ。皆前を向いている。言い換えれば、僕の方を向いているのは先生のみということだ。「よし!!」心の中でガッツポーズを決めた。

そう。僕は鼻水を出す。誰も見てない。大丈夫。鼻の奥から水が湧く感じがする。流れ出す。大丈夫。誰も見ていない。鼻毛ダムを通過する。そして鼻と口の溝を淀川の水が通る。大丈夫。誰も見てない。今の僕はボーチャン。でも大丈夫。誰も見てない。

 

もう鼻水は止まることを知らない。文字通り堰を切った川である。止まらない。

鼻水魔神。それは僕。今まで何故止めようとしていたのだろう。赤ん坊はおしゃぶりを外しても良いだろう。犬は首輪を着けなくても良いだろう。鼻水で僕は逍遙遊の境地に至る。誰も見ていないのだ。

 

そんな上善鼻水の如しとし始めた僕の耳に先生の声が聞こえた。

「make group and discussion 」

その瞬間、僕の隣と前の人は僕の方に振り向いた。僕は鼻水を垂らしたまま、僕の顔を見て唖然とした二人を見た。

 

 

 

 

 

コミュ障僕。英会話サークルに参加する。(前編)

人間は互いにコミュニケーションをする生き物だ。人と人との間で生きることで、人間と成るのではないか。

最近ではイルカやコウモリなど、様々な動物もまたコミュニケーションをしていると判っている。

 

しかし、ここにいる、今この文字を必死に指を動かして、フリック入力しているこの生命体は、凡そ人間でも動物でもないのかもしれない。なんたって僕は人とコミュニケーションがとることが大の苦手であるのだ。

人はソレをコミュ障と言う。コミュ障という一種、別次元の生命体として人はソレを扱う。

辞書を開く。

[Communicate ]

コミュニケイトと言う。

さらに言えば、コミュゥ↑ニケェィトと言う。分かる。理解はしている。だが、単語の理解と実践は違うのだ。

 

しかし、今なぜか僕は新入生として英会話サークルに来ている。

なぜ、どうして。不思議に思うかもしれない。はっきり言わせてもらおう。これは、これだけは、本当に自分でも分からない。

「意味がわからん。」という人があるかもしれない。そういう人に、僕は大学生の常套句を用いて言い返す「それな。」と。

 

しかしながら世の中、不思議なことは往々にして存在するのだ。旧校舎の3階女子トイレには花子さんがいるし、マリーアントワネットは楽器の名前みたいだし、脳内会議で超合理的決断をしてしまうこともあるのだ。

 

今日はサークルオリエンテーションである。その日、僕の脳内サミットでは熾烈な議論が行われていた。議題は「僕を人と話せる真っ当な人間にする化計画」

 

聴覚機能を司る側頭葉国の長は言う。「コヤツは人と話すには教養が足りない。もう少し音楽的素養を磨くべきじゃ。じゃから吹奏楽部に入るべきじゃ。」

 

運動機能を司る前頭葉国の長は言う。「あんだって?教養だって?クソ食らえ!コイツに足んねえのは!気合いだ!男なら口はいらねえ!拳で語れ!ボクシング部に入部しろ!!」

言語機能を司る大脳国の長は言う。「ふむ。なるほど。確かにこの男は口では人と上手く話せないですね。しかし、拳で語り合うのはいけないでしょう。ただでさえ不具合が多い頭です。殴られて更に頭が悪くなってしまっては困ります。あ、そうだ。どうでしょう。いっそのこと英会話サークルに入部するというのは。英会話サークルならば、教養も身に付けつつコミュ障を脱却できるのではないでしょうか。」

 

 

といったような悪魔の弁証法が僕の脳でなされたのではなかろうか。

まあ、ともかくとして、今、「コミュ障」という学名の生命体である僕は、円卓が5つほど並べられた、英会話サークルの狭い活動教室にいる。

ここで言っておくが、当然僕は英語も出来ない。日本語でコミュニケイトさえできないのだ。況んや英語をや。である。

 

不安だ。どうしよう。帰りたい。そんな考えが頭をずうんと支配する。

教室内にはチラホラ新入生がいるが、少し早く着いてしまったため、上級生は未だいない。

僕は「インキャの英会話サークルであれ。コミュ障しかいない英会話サークルであれ。みんなコミュ障であれ。」と半ば狂乱的にコミュ障系英会話サークルであることを祈っていた。

 

しかし、そんな矢先。ガラッと扉があいた。その瞬間、僕の鼓膜はブルブル震えた。

「ウェェールカーム!ニューカマァーズ!」

大きな声を出して入ってきたのは、コミュ障とは天地の差がある、スポークスマンな上級生達であった。

 

 

 

 

ねどこのせんにん

最近はお昼過ぎまでうつらうつらと眠り呆けていることがある。

社会的な時間から離れてゆっくりと、流れていくこの時間が好きである。

外の人は学校に行っているかもしれない、外の人は働いているかもしれかい。

僕は羽毛布団にくるまれて眠る。ベッドの上のデジタル時計が13:00を示す。13時かあ。外の人はもしかしたら、もうお昼休みも終えてせっせと就業に戻っているかもしれない。僕はお昼休みを延長する。

 

なるほど、社会は回るのだ。そして僕は寝るのだ。社会は回って僕は寝る。時計が13:04を示している。まだこんな時間か。この部屋では、いや、この寝床では時間がゆっくりに流れているのかもしれない。でも、夕方になって寝床を出ると、ベッドの上で芋虫になっていたのは一瞬の出来事に感じ、頭に何も残っていない。今日自分は何をしたんだろう。何も覚えていない。もうこんな時間ではないか。そういう気分になる。

多分これは寝床の外に出たからであると思う。ベッドの上でゆっくり流れていた内の時間が、そこから出ると早く流れる外の時間に変化する。その落差でこう感じるのだ。

 

時間は多くの場合で相対的であると思う。外の様々な人との関係、関わりの中で時間は変容する。しかし、寝床の上では自分一人である。その瞬間、時間は相対ではなくなる。自分だけの時間が流れる。寝床の上でだけ社会から離れた悠久の時間を感じられる。寝床の仙人である。

僕が夜の蝶に転身できる可能性

[夜の蝶] 

主に夜の繁華街できらびやかな姿格好をしサービスを提供するお姉さんを指す言葉。

❨用例❩アタシ...歌舞伎町のオンナになるワ...。アタシ...夜の蝶として羽ばたくの決めたカラッッ!!

   (出典:『龍が如く広辞苑』第嘘八百版)

 

まあ、龍が如くにこんなシーンがあるかは知りませんけれどもね。はい。ええ。はい。

 

では今回は、僕がその夜の蝶にどうすればなることができるか、ということについて「論理的」に考えていきます。

(※以降、夜の蝶を、僕の趣味趣向のためエッチなお姉さんと書きます) 

 

エッチなお姉さんと僕の相違点を考えます。自分と相手との距離を知ることは何よりも大切です。

相違点は大きく二つでしょう。

 

それは当然ルックスとチンチンの有無であろうと思います。

人間を二元論的にチンチン付属かそうでないかで分けると、僕はチンチン付属タイプの人間です。強いて言うならケツ毛も付属しています。

これだけ見ると、とてもじゃないがエッチなお姉さんにはなれなさそうに見えます。ですが、「論理的」に考えると、はたしてそうでしょうか。

 

目の大きさは0.01ミリ大きくても変わらないでしょう。例えば0.01ミリ大きくなったことであなたに言い寄る人間が増えたりしないはずです。つまり変わらないわけです。そして、そこから0.01ミリ大きくしても変わらないはずです。当然次も変わらない。よって、0.01ミリ大きく、0.01ミリ大きくと繰り返していく。それでも変わりません。なぜなら今より0.01ミリ小さかった時はその前と変わらないわけだから。ほら分かったでしょう。論理的帰結として僕とエッチなお姉さんのパッチリお目目に違いはないことになります。

同様にして鼻も少しずつ高くし、背も少しずつ高くします。おっぱいも大きくします。そして問題だったチンチンも0.01ミリずつ引っ込めます。ケツの毛も一本ずつ失くします。

こう考えれば、なにも問題はないわけです。だってほら。上のようにいとも簡単に「僕=エッチなお姉さん」の等式が成り立つわけですから。

 

人間、外見において個々人の差というのは詰まるところ、凹凸と大きさと量に集約されます。

こうである以上、広義で見れば皆等しい外見をしています。

つまり、僕のこの詭弁的帰納法の下においては人類が皆平等であるわけです。詭弁的帰納法で考えれば、人類が皆エッチなお姉さんでもあり、僕でもあるわけで、画面の前のあなたでもあるわけです。

 

 

 

怠け者には旅をさせよ~和歌山旅行記~

今春買った青春18きっぷ(1日JRが特急以外乗り放題)が残っていることに昨夜気づいた。

「明日、朝早く起きたら旅に出よう」と一種の賭けを思った。なぜ賭けと表現するか。それは、巷で僕は「寝床仙人」と呼ばれるほど朝も昼も夜も忘れ眠り呆けているからだ。多分、身体が新生児モデルなのだと思う。

だから、僕が早起きをすることは奇跡にも等しく、奇跡が起きたのなら旅に出ても良いという寸法だ。そう思いながら。寝た。

 

翌朝。早朝7時40分に起床。本当に奇跡起きた。脳内にGReeeeNが流れる。「明日、今日よりも笑顔になれる」うるせえ!!!明日じゃねえ!今日行くんだ!旅。もちろん行き先は決まってないが。

 

とりあえず卵かけご飯とお茶とコーヒーを胃に沈め出発した。そしてバタバタしてる間に行き先も依然決めぬまま大阪駅に着いてしまった。通勤ラッシュで大阪駅は凄い人だかりだ。行き交う顔。顔。そして顔......。行き先どうしよう。どこに行こう。そんな時。おっ!!ふと、ある女の人の顔に目が止まった。同時に「和歌山に行こう!」と決意した。目に止まったその顔は少しばかり梅干しに似ていた。

 

話は変わるが、ここで「旅を楽しむための3つのステップ」というものをボケナス読者に教えておこうと思う。では①②③で。

①コンビニに行きます。

②酒を買います。

③豪快に飲みます。

これだけ。これだけで楽しくなる。

 

僕は片手に読みかけの文庫本、もう片手に飲みかけのスーパードライという両手に花で紀州路快速に乗り込んだ。

ちなみに文庫本は「西の魔女が死んだ

これは不登校になった少女が「西の魔女」と呼ばれるお婆ちゃんの家でお手伝いをして少しずつ成長していく物語。切なくも温かいハートフルストーリーである。

車内で飲みながらこれを読んでいるとポカポカした気分になった。断じて酒でポカポカしたわけではないと言っておく。多分。きっと。まあでも、間をとって相乗効果ということにしとこうか。(西の魔女素晴らしかったです。)

 

早々に読みかけであった一冊目を読み終えてしまったので、阪和線に乗り込んだところで二冊目を手に取った。氷菓シリーズ「クドリャフカの順番」これも文庫本。先程はふざけてしまったが、文庫本を読みながら、大した宛もなく電車に揺られるのは良いものである。車窓から見える景色が、だらっとした非日常に一層の満足感を与える。

色々な景色を車窓から見た。お花見するママ達と連れられてきた(たぶん退屈な)子供たち。ばかデカイ名前も知らん山々。大阪湾か和歌山湾か名前も知らん海。窓に反射する、本を片手にした猿顔の人間。

 

それを見たり見なかったりしながら本を読んでいるとお腹が減ってきた。もう昼過ぎだ。そんな時、4人の女子高生達が入ってきたようだ。どうやら短縮授業があったらしい。「○○って顔キモいけど授業面白いよね~w」「ww顔キモいけどめっちゃ分かりやすいしねw」

 

おそらく先生について話しているのだろうが、僕は顔面至上社会の一端を見た気がして戦慄した。顔がキモければ何をしても枕詞「顔キモいけど」がつけられる地獄。

whatever you do ,you are busaiku.この悪しき風潮がこんな和歌山の辺境まで及んでいるのである。いわんや大阪をや。である。

なんだか少しだけ腹が立ってきたのは、自分が枕詞「顔キモいけど」を欲しいままにしているという自覚が少なからずあるからだろうか。

そんなに人に言う君達の顔はどうなんだ。怒りが沸いてきた僕は、彼女らが降りる際、顔を見てみた。あーーーーなるほど。みんな粒ぞろいの美人だった。あざす。それはそれであざす。僕もいつのまにか顔面至上社会の一員なのかもしれない。

 

彼女らは和歌山駅で降りた。そして僕も一緒に和歌山駅で降りた。(終点だったから降りただけ。ボケナスの読者が思っているような他意はない。)

次回は午後編。これは車窓から見えた謎湾。帰りのだけど。
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三十一音のコンビニからの帰り道。

今日は夕方までベッドでうつらうつらしていたが、「これでは肩が凝る。」と思い、散歩がてらコンビニに出掛けた。

そして道中、短歌が歌いたくなったから、帰り道に短歌を歌って帰ることにした。

 

7つ作りました。帰り道に辿っていった順に並べています。歌に阪急電車という大阪のローカル線が出てきます。一応後ろに図を入れておきます。(ネットから取ってきたやつだけど) では、五七五七七。三十一音の帰り道。

 

 

ストローを プスッと差し込み あゝ悲劇

長くするため 一度取り出し

 

花粉症 止まらぬ鼻水 我思う 

鼻腔に広がる 宇宙空間

 

眺めいる 茜に染まる 夕空に

包まれ進む 阪急電車

 

なんやっけ 阪急に似た あれやあれ

思い出したわ ガトーショコラ

 

つかれたな あってほしいな 「僕電車」

 

「僕電車」 乗客がらん 僕一人

"コンビニ駅"から "僕んち駅"

 

もう家やん ポテチとコーラ 引っ提げて

夕飯前の 一人パレード


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